'Superfluidad', the icing on the cake ...vol.1
・・・シャーマン、トランス、アヤワスカ、蛇足的説明の1(シャーマン)

 旅を終えて帰って来ると、どこ行ってたの?何しに行ったの?というような常套語に囲まれるのが常である。そこで俺はこう答える。

 「南米でシャーマンに会ってきた。」

 まず、日本で一般的な社会生活を送っている人たちの多くはここで眉をひそめる。
 それでも、多少、好奇心のつよい人は、えぇ!シャーマンってなんかあの呪術師っぽいヤツでしょ?会ってどうしたの?なんて訊いてくるので、俺はこう答える。

 「彼らのセッションでトランス体験してきた。」

 まず、日本で一般的な社会生活を送り、一般的な社会通念を持ってる人たちの多くはここで眉をひそめる。
 それでも、多少、好奇心がつよくて、そっちの知識を持ってる人は、へぇ!セッションってどんなの?やっぱ、ヤバイトランス剤とか使うの?なんて訊いてくるので、

 「アヤワスカっていうジャングルに生えてる蔓を使うんだ。ひと晩じゅう煮込んで出来たドロドロの液体を飲んで、シャーマンに導かれて精神世界に入って、そこで精霊と交信するのさ。ビジョンを見たり、お告げを受けたり、究極の癒しとでも言うのかな、とにかく常識がぶっ壊される世界だよ。」

 と答えたくなる俺は、ここはぐぅっと堪えて、適当な回答でお茶を濁すことにしている。(いや、結構あからさまに答えてるか・・・。)
 大麻や幻覚きのこ、違法薬物などのドラッグが国内で広がり、若年層での服用がメディアで取り上げられる昨今、LSDの100倍の作用力を持つトランス剤を使ったなんて聞けば眉をひそめるのが普通だし、オウムや白装束などの新興宗教(新新興宗教)団体が引き起こす事件が報じられる昨今、人里離れたアマゾン川の上流の新興宗教が開拓したコミュニティに行ってトランス剤を使ったミサに参加したなんて聞けば、「ちょっと失礼」と言って席を立つのが当然だろう。4年前、まだフツーの会社員をしていた俺も同じ反応を示したに違いない。

 しかし、「とまれみよ」。

 それらは、それら自身が、本当に問題なのか?何がどう問題なのか?何となく「触れてはならない話題」として、遠ざけられがちだが、一概に不必要で排除すべきものばかりと決め込んでよいものか?
 一般にドラッグと呼ばれるモノがなぜ如何わしいかといえば、それが法律で禁じら(規制さ)れており、それをやぶって服用する輩は犯罪者とされるからだ。一部の大麻は市販の煙草よりも人体への影響が小さいなんて話は(真偽のほどはともかく)よく聞く話だし、アルコールなんて立派なトランス剤と言える。「宗教」と聞いた時に感じる如何わしさは、オウムや一部の団体が引き起こす事件のせいであり、宗教の歴史に比べればごく最近の話だ。本来、宗教とは、歴史的長さから言っても、人間の生活と密接に関わってきた。
 つまり、良く考えてみると、「それら」が問題なのではなく、「それら」をとりまく環境(法環境や社会通念)、またその間の関係性に問題があるように思えてくる。
(念のため、あくまで念のために断っておくが、ここで違法ドラッグ使用者の支持や弁解をするつもりは毛頭ない。社会のルールとしての法律を守るのは、その社会で生きるために守らなければならない基本的な姿勢のひとつ。法律を守るのがどうしても嫌ならば社会(国)を出て、法律の緩い社会(国)へ行けば良い。日本の憲法は他国の国籍を取得して日本から移住していく自由を保障しているのだから)。
 
 シャーマンの語はエヴェンキ(ツングース)族の「興奮、高揚状態にある人」を意味するサマンsamanから来ている。
(日本民族学辞典より)

 シャーマンとは古来、神霊や精霊と交信することで、大衆から敬われてきた。もっとも原始的な宗教のひとつの形態と呼べる。紀元前1万3千500百年に描かれたとされるラスコーの壁画、竪穴上にある有名な作(歴史や美術の教科書に出ている、バッファローとその傍らの人間らしきもの)に描かれているのはシャーマンだとも言われている(H. キルヒナー、「シャーマニズム先史学論集」)。実際のところは定かではないが、シャーマンやシャーマンを中心とした社会形態は、旧石器時代にまでその歴史は遡れると言われている。人類が、神霊や精霊を概念として認識した後ならば、いつシャーマンが出現していてもおかしくはない。以降、ときに未来を占う預言者として、またときに政治のための求心力として、時と共にさまざまな役割を担うことになるが、常に村や国の中心で重要な役割を務めてきた。

 日本の歴史を考えたときに真っ先に思い浮かぶシャーマンは、卑弥呼だろう。

 また、シャーマンは宗教的、社会的な役割を演じただけではない。中原佑介著の「ヒトはなぜ絵を描くのか」の中で対談した宗教学者の中沢新一は、「シャーマンの登場は芸術の誕生と同時だと考えることができます」と述べている。言語にとって詩が発生したのは、「死」だけでなく「再生」へと当時の人々の意識が広がったからだとしている。死と再生の象徴としてのシャーマンの誕生ということになる。これも真偽のほどは確かめようもないが、単に意思伝達のための機能としてでない内言としての詩や、言語と同様の機能としてでない壁画の発生と、神や死を司るシャーマンが密接に関わりあってきたという点には、どことなく納得させられてしまう。
 
 シャーマンの文化は今日でも世界中でその側面を見ることが出来る。日本なら、東北のイタコや沖縄のユタが有名だが、他にもゴミソ、カミサン、オナカマ、ワカ、モノシリ、ムヌチー、行者、祈祷師、ト占師、などが典型例として挙げられる。また、各地の古い神社や伝統行事、祭事などにもその側面を見出すことが出来る。日本に限らず世界各地で、その土地土着(ネイティブ)の宗教観にはシャーマン的性格が見つけられる例が多い。
また、意外なところからもシャーマンとの関係を探ることが出来る。例えば、お風呂。入浴習慣の起源については諸説あるが、文化人類学者の吉田集而は著書「風呂とエクスタシー」の中で、次のように述べている。

 「私はここでひとつの仮説を提示したいと思う。それは、風呂はシャーマニズムから派生したという仮説である。より詳しく言えば、シャーマンあるいはシャーマンとともにいた人がトランス状態に入るための技法のひとつとして成立したということである。」

 今でこそ、ごく当たり前の習慣となってはいるが、冷静に考えれば入浴という行為、かなり不自然なものにも見える。体を洗うだけならば湯船に浸かる必要はないし、もともと習慣のない人にすれば、40℃の湯に身体を浸すのはなかなか大変なこと。まして、当時、「いい湯加減」なんてあるはずもない。たしかに、それ相応の理由や必要性がなければ入らないのが普通だ。ただ、宗教などによる意味づけがあったとしたら、話は別だ。アメリカンインディアンによる"スウェット"(テントをサウナ状にして行う儀式)はそういう側面を強く残したセレモニーと言える。

こうしたシャーマンの儀式に無くてはならないのが、トランスである。

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